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#知的財産にはなるべくお金を払いたいヒトなんです。
ま、金欠だから時々なんちゃってで済ませるけどネ
CD一冊買えないわーと思っていたけれど、
どうしても聞きたくて(聞き比べたくて)、
ジュリアン・ラクリン様のブラームスのヴァイオリン協奏曲op77を、とうとう!
ワーナークラシックスから3ポンドでダウンロード購入しまシタ(*´д`*)
Amazonのユーザレビューによると同CDのモーツァルトのんが、
断然出来が良いとあったので、そっちも聞きたいけれど、とりあえずブラームス。
#欲しいものリストにあるやつ→
#モーツァルトのはムターのあるし・・・
何度も書いてシツコイけれど、もちろん比べるのはNHK2008音楽祭の、
ラクリン様のブラームスと、だ。
指揮者は同じヤンソンスだけれどオケは違う。
当然、演奏時のラクリン様も若いはずw
1、2楽章にひどい違和感を感じなかったけれど、
3楽章のラストにかけてのテンポの違いが歴然としており、結果的に、
全体、丁寧に丁寧に弾いてますぅぅぅという感じだったな~という印象。
2008音楽祭のんが圧倒的に情熱的です、が・・・
どちらも嫌いではありません。
ところで、sonyに居た頃(たぶん)に出ている、
ラクリン様のチャイコフスキのヴァイオリン協奏曲もよかったデス
・・・これはCD買いました。
曲も奏者も指揮者も楽団もロシア一色という感じで、萌え(?)
で、もしかして私、ロシア音楽好きなの?と近頃気がついてみたり。
#ラクリン様はロシアじゃないけど・・・出身地近いから・・・まぁ^^;
同曲については、ムターのがスゴイとの評判なので、そっちも気になってぃます。
あぁー聞きたいな・・orz
ところで、3ポンドっていくらよ?って話。
今日は136円/1ポンドとありましたが、さて・・・
1楽章だけ曲1.4ポンド、2、3楽章が曲0.8ポンド、だったかな。
為替レートによって安くなったり高くなったり?
気をつけようかな
#
チャイコフスキと一緒にシベリウスのboxも買ったけど、
その話はまた今度。
#
#断筆チュー。
#昔のヒトとか誰かの詩とかパクって、ね
「いとおしきもの」
いとおしきもの
まつすぐに われをみつめる きみのめのなかのいろ
あいまいな いろ くろでもちやいろでもなく
うすらぼけた よあけのような いとおしきいろ
いとおしきもの
われにむこうた きみのはじらい
うつむせる おもてひそかにぬすみみるれば
ふとくちびるの うごくは あいのことばかな
いとおしきもの
じようねつとはいかばかりにも たとえようもなくあつい
きみにあたえんともえさかる われのたましい
いとおしきもの
にげようもなく まつすぐな
ちょっと読みたい本があります。
なんでしょ、近年、まったく本が読めませんでした。
文字は認識できますが^^; 読んだハタから、一文字ずつ消えていく感じ。
内容がまったく理解できないような、頭に残らないような、
そんな常態が長らく続いてて、、、
近頃ようやく、少し読めるようになりました(3分くらいw)。
#読書が嫌いなわけじゃないです。
で、
という本がとても気になっております。
近年の私が、
極限に挑戦しなくては乗り越えられないと思われる壁の前にいるような気がしてて、、
自分をも応援してくれるような本が読みたい、そう思うようになりまして。
読んだ方の話を聞いていると、私の需要に合うもののような感じ?
まずは欲しいデス。
でないと読めませんw
でも、もうちょっと気分が上向きにならないと読めないかもしれないので、
中古が安くなるの、待とうかな・・・( 。・_・。)
#ネーミングが絶妙である。
#ここ(現住所)が東京ではないことを悔やむ時、
それは通販で手に入らなさげなモノがそこにある時である。
先日届いた、エル・ア・ターブルを読んでいたら、
山本海苔がくっついたトリュフ
なるものが・・・まーぁ、ね?
どうせチョコレートは食べない方向で生きてますよ、近頃?
でもね、こーゆうのはやはり、食べたいですよネwww
http://www.elle.co.jp/atable/pick/choco09_0130
リンクは前記の雑誌のページ。
だれか、私にコレ買ってくださーーーい (っ`Д´)っ

「座右の銘は?」という質問に、時々行き当たることがある、
たとえば、blogネタのバトンや、アンケートやプロフィール作成時などに。
長らく私は、
「誰も過去の柵から逃れられない」旨を記していたのだが、
近頃になって、(うーん、これよネ)と思うものが他に出てきた。
それは 「無言実行」 である。
これは、いままでの私の行動パターンであり、理想でもあり、
忌み嫌う人間性の対極にある言葉でもある。
”嫌いな人間”の最たるものとして、「有言不実行な人間」を挙げたい。
言うばっかりで何もしない人。
寡黙こそ美、とまでは言わぬが、ペラペラと出来もしないような理想ばかりを、
さも得意げに口上する人間を、私は好きではない。
「知ったかぶり」と「くちばっかり」という人間には辟易しているからだ。
日常から肝に銘じていることのいくつかに、
「くちは災いの元」
「知らぬは恥ではない」
「ムダ口を叩かない」
などがある。
だから、言葉を選ぶあまりに、返事をするまで異様に時間がかかったりする。
だから、あいまいな記憶しかない話題や、
うろ覚えなことに関しては、「ぇー知りません~」とドコででも誰にでも、
バカかとおもわれるほどのネタでも、はっきり告げることにしている。
それを、ずるい人間といえば、そのとおりで、
「出来もしないことを言うくらいなら最初から言わないで、やらないほうがマシ」
もしくは「うかつなことを言って、足元をすくわれるのはゴメン」という、
逃げ腰的な事なかれ主義と、言えなくもない。
だが、私は平穏に過ごしたい。
得がたい環境であり、困難な理想ではあるが、とにかく平穏無事に暮らしたい。
そして、理想の一つに、「何でも出来る人」というのがある。
身内にさえ周知せずにこっそり知識を仕入れたり鍛錬したりするのが好きで、
誰も知らないうちにかなりマニアックな人になっていたりする。
これも、習得できなくてもバレずにすむから公言しないだけ、でもある。
公言しても、実行しつづける忍耐力や努力や自信やスタミナが無いだけ、でもある。
たとえば、「英会話はじめたんだ~」等とクチにだして言えば、
身につかなかったり、三日坊主で終わりたいときに、決まりが悪いからである。
保身、
高いプライド。
でも、それだけではない。
人間として、広くも狭くも社会においてやらねばならないことは、
言われなくてもやる人間、出来る人間でありたい、そう思っている。
常々、「こうありたい」と思っていても、
やるべき場面に出くわして、出来なかった時ほど、
痛烈に無力さを感じる時はない。
なんと自分に勇気のないことか、情けなくも悔しくも複雑に思い、
「次」など来るか来ないか分からないが、「次はそうしよう」と思うものだ。
多少、路線が外れるが、
未だに後悔してその度に胸がモヤモヤする事件が数年前にあった。
手押し信号の横断歩道での出来事である。
私がボタンを押して信号の変わるのを待っているとき、
もう一人若い女性(学生?)も後から来て、一緒に待っていた。
渡りたい道路は国道で、田舎の幹線でもある。
ちょうど歩行者信号が青になる頃、右手から救急車がやってきた。
運転者ならば当然、救急車をやりすごしてから自分が渡ると思う。
私は、運転免許をもっており、当然その思考で行動した。
つまり、渡らずに救急車のすぎるのを、待っていた。
ふと気がつくと、隣にいた女性は、何食わぬカオで、
ダラダラと、急ぐでもなくマイペースに横断歩道を渡りだしたのだ。
このとき私は(彼女を止めるべきじゃないか?)と瞬時に思った。
救急車は彼女が渡るのを、しかたなく、待つべく停止した。
とっさに、口に出せなかった、たった一言を、
考えている間に彼女はもう半分も進んでいた。
私は、もちろん渡れもせずに呆然としていて、
彼女が渡ったあとに救急車が通り過ぎ、そのあとで横断歩道を渡った。
左右に赤で止まっている一般車両の注目を浴びながら、いたたまれなかった。
一生忘れられないくらいの不覚だと思う。
どうして、青だけど 「待ちなさい」 と言えなかったのか?
救急車の患者は大丈夫だったのか?
目撃していた人は私が「止めるべきだったでしょ、」と軽蔑しただろうか?
社会上、彼女の目上の人間として、やるべきことが出来なかった。
「待って!」そのひとことだけで、よかったのに。
イタイ、ほんとうにイタイ思い出だ。
今後何度も、私の不覚を思うたびに、
折に触れ引き合いに出すであろうくらい、痛烈な出来事だった。
「無言実行」とはいえ、これだけは公言しておきたい、と思う。
「言うべきときは言える人」でなくてはならない。
小さな勇気が、たくさん要るけれど。
ソウゾウを ぜっする
さむいよるが あります
喩えるに、何かを失った直後の気分のような時
こごえてしまいます さむいよるがくるたび
フトンは やくにたちませんから
このように 誰にわかることもない寒さ
ソウゾウを ぜっする
さむいよるがあります
なぜ なのに
なぜ 朝は来るのでしょう
私は凍えません
凍死さえしません
このようにさむいと いうのに
さむい
さむいよるが
あなたのてによって
すくわれますように
喩えるに、ハッピーエンドの童話のように
ええ、
ソウゾウをぜっする
さむいよるはもうきません
ひとりではない
ただそれだけで もう二度と
前に、言葉を持った生き物として、
言葉の世界に居る者として、言葉は大事にしたい、
言葉を聞きたい、尽くしたい旨の話をした気がする。
実体同士が対面しないネットオンラインにおいては確証が持てないが、
近頃、身にしみる真実として私の頭で反復されるフレーズがある。
言葉にしないでも伝わる人には伝わるし、いかなる言葉を尽くしても、伝わらない人には伝わらない。
つまり言葉で伝わるくらいならその前に伝わっているということだ。
言葉を交わすことは単なる確認作業に過ぎない。
心、つまり気だろうか。
気配、とかいてキクバリと読むかケハイと読むか。
気を配られている相手に伝われば「気が付く」、では何にきがつくのか。
それは心配に、だ。
またもや、心配とかいてシンパイと読むかココロクバリと読むか。
不安がることばかりがシンパイではない。
不幸や不慮がおこらない心がけこそがシンパイであるのだと思う。
その心が乗った思いが気だと思う。
まさに、気は言葉にならない思い。
同席している人と言葉を交わしても判り合えないのなら気が合わないということであり、その後その人と心が交わることは稀だと思う。
1を知って10を知ると言うように、
最初に気が合うと感じた相手とは程なく理解し合えるようになりやすい。
人には言葉という手段があるおかげで、
争いが絶えないのではないか。
ケハイだけで判り合える野生は、
無駄な争いは決してしない。
昨今、言葉を用いて、なんとか思う通りに相手を説き伏せよう、
あるいは、言いくるめよう、騙そう、
支配しよう等といった、奢った考えが横行している。
本来、人間にもあるはずの、相手の気を受け止めようとする野生の勘が薄れつつあるのは、
洒落た言葉に傾倒しすぎたがための応報ではないか。
だが一方で、心打つ演説や気の利いた言葉は、
やはり聞いていたいものでもある。
そこには心がこもっているからなのだろう。
現代の何もかもが薄っぺらな現実に見えるのは、
あらゆるメディアから溢れ押し寄せてくる文字や写真や音声といった「気」のない情報に支配されているからではないのか?
生身の人からしか感じられないケハイに、人々は飢えている。
心はナマモノだ。
しかも刻一刻と姿を変える。
その場に居なければ心のすべては伝わらない。
心には心を以てしか心を伝えることは出来ない。
だが、その断片でもせめてという思いで言葉を綴る。
人間はなんて切ないのだろう。
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| S | M | T | W | T | F | S |
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のんびりマッタリ、多岐ジャンルにて創作・制作・製造活動にあこがれる妄想家です。
カタンの発祥はNiftyServe。バンドB・chでのハンドルネーム。
詩のフォーラム(FPOEM)ではハンドルネーム七風(ナナセ)で、暫し在籍。いずれも1996年頃~。
当時の作品は書庫に格納作業中。
その後、1997年5月にサイト「十字架工房」を立ち上げたが、あれこれ変遷。
縁がある、と思われる方はぜひコメント、トラックバックをblogから、メールをフォームから。
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