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文学の推移という

現代、という定義がどれくらいの前後を指した年月か、
気にしたことはない。
そんなわけで、現在と言わせていただくとして。

父が言う。
「現在でている小説など全く読む気もない」と。
繰り返し述べるには、
「サラダ記念日」などというくだらない本が出た、
「あれ」を境目にしてからというもの、日本文学は崩壊したと言い、はばからず

とはいえ、村上春樹のナントカいう新作があまりに注目されている件と、
外国ででさえ氏の本が読まれている事実を鑑みて、
読んでみたいと思ったらしい。
私は、先に述べたとおり、「ノルウェイの森」をやっと読み始めたところで、
まだ1冊目の3分の1にすら達していない。
それでも、記憶に残りうる文節があり、例えば、
登場人物たちの人格規範、彼らの説明していよう場面で使われていた、
「1頁も無駄な頁のない本」という旨の表現である。

私は、心底そのような本を読みたい、と思ったものだ。
それは、どんな本であろうか。
私にとって、そのような本が存在するだろうか。


かの表現を受けた矢先、書評にめぐり合い、かのようにして私が手にした本は、
「ユルスナールの靴」であり、
その中に、私の望む世界観が、広がっていたことは、
私をとても安心させてくれた。
ほんのプロローグを読んだだけで感想を述べるのは本意ではないが、
訳するに、「靴がなくなったことが、「盗まれたからというショック」ではなくて、
靴に「自分が見放されたような気がした」ことが情けない」と感じた」という、
著者の感性は共感に値する。

飾らない、ありのまま。
年月を重ねたからこそ簡潔に端的に的確に表現されてゆく何か。
そのくだりを見ただけで、
この先を読み進めても、きっと私ががっかりするようなことは無い。
根拠も無くそのように思えた。

同時進行で、「コルシア書店の仲間たち」にも目を当てている。
まだ、「読んで」はいない。
無作為に頁を開いては、
どのようであるかを吟味している、そのような感じで。

あとがきにかえて、という最後の方にある一言が素晴らしい。
感動して、何度も何度も読み返した。
そうか、そういうことなんだ。
きっとわたしも、そう思っている、解かっているけれどわかりたくない、
抗いたい真実、抵抗したい現実、打ち破りたい非常識。

いま、まさに、私が打ちあたっている壁、
私の思っていることや状況、ちょっと普通には言い表せないような、それらが、
サラリと、一言一句も違わずに表現されていたことが、嬉しかった。

憧れる。
全作、読破したいと、なんとなく思っている。
読むべき時期があるとすれば、
私はいま、この2冊を読むべきなのだと、確信した。

私の「読書」は昔からとても遅く、
3歩進んで2歩さがりつつ、一言一句読み飛ばしたりしない、
反芻しつつ刻んでゆく、それが好きな読み方で、だから、
それが出来ない「浅い本」は、読んだハナから、脳から昇華してしまう。

決して、読書家ではないので、
「本当」に読んだことのある本は、実に少ない。
印象にある・・・覚えているのは、森鴎外の高瀬舟 宮本輝の泥の川。
夏目漱石のこころ、宮沢賢治の、オツベルと像、銀河鉄道の夜。
芥川龍之介の蜘蛛の糸、羅生門。

古く、ないか?
現代文学では、もはや無いのではないか?
廃れるべくの作品では決して無いが、時代という流れには抗えない、
私はそう、思うのだ。


さて、本件の、サラダ記念日であるが。

読んだことがない。

私は、読んだことがないのだ。
短歌は嫌いではないし、もちろん自分でも表現することもある。
いちいち掲載しないだけで、
そうとう書いたり考えたりはする、鍛錬も兼ねて。


サラダ記念日が出版されてから、
現代文学をにマッタク興味が無くなった、
文学ではなくなったと断言する父であるが、果たして彼は、
件の本を、読んだのであろうか。
確かめたことはないが、おそらく読んでいないに違いない。

父は、現代的なものをとにかく否定する。
アホっぽく見えるアイドルがキャーキャーさわいでいる番組や、
ヤラセ根性丸出しの、民放のドキュメンタリー、
視聴率だけを重視した、もはや何を伝えたいのかわからない大河ドラマ、
クイズ番組、歌謡曲番組、とにかくなにもかも、自分の意に会わないものを、
ばかばかしい、くだらない、うるさい、低俗だ、・・・そのように。

だが、真剣に見たことがあるのだろうか。
正面から受け止めて、検証したことも無いものを、貶す権利など、
私には無いとおもえるのだが、本人は、偏見と、
古き、よき時代へのノスタルジィだけで見下しているように思う。



時代は、進んでいくものだ。
良くも悪くも、変化し続けるものだ。

私が、日々うせてゆくと憂えるものとしての「美しい日本語」という文化さえ、
軽んじられて、消え逝こうとしている。

だが、時代というものもある。
時は止まらない。
文明は進む。
言語も、文化も、あわせて変化する。
誰にも、止めようも無いことは、 揺るがない事実であり、認めざるを得ない。

推移する文学という文化。


終の棲家という、最新の芥川賞作品の、なんと読みにくいことか。
芥川賞が、コレ程度なのだ。

なげかわしいと思う気持ちは、否めない。

だが、時代についていく本でなくては、
文化ではないのだ。
言語は進化する、当然、時代を反映する。
略語、絵文字、通信手段の変化により短縮されてゆく言葉たち、
まるで記号と化した様な、「若者」のメールやチャットや掲示板の表現。

憂うべきであろうとも。
純文学を愛する人種としては、許しがたい、文学もしくは言語への冒涜にすぎない、
もはや死語のようである「新人類」は、常に代謝するのだ。
そうでなくては、時代は前にしか進まないのであるから、仕方が無い。


だとすると、
「古き良き」を守るべくは誰であろうか。
今後永遠に、著後100年も読まれるであろう本は、どれであろうか。
愛されるべきは文学ではないのか。
淘汰されて残るべきは、どのような本であろうか。
200年後に、「いまも尚、愛され続ける名作」とは、今読まれている、
過去の名作ばかりであるのではないだろうか。
わたしは、そのような危惧を抱かずにいられない。

結局、**賞と冠をいただいた作家の作品だけが、
永遠と残るのではないか。
その賞を頂いた作品は、残らないのではないか。
大賞をもらわずとも、残り逝くべきは、本当は賞など、もらえないような、
些細な本なのではないか。

私たちは、もはやそのような、何かを越えて行くことを、
諦めてはいないだろうか。

故人のみならず、わが名を冠とする賞を設立できるほどの文学が、
残っていくことを切に願う。

だが、時代は動いてゆく。
文化も進んでゆく。

推移してゆくのだ。

何もかもが。

とどまっているだけが、正解では、決して無い。

サラダ記念日が、古文の世界を打ち砕いたのは間違いがないと思われる。
文学の在り方や、敷居を低くしたり、その程度でいいんだ、という間違った価値観を、
広めたことを、私は否めない。

現代にあった文章でなくてはいけないのか。
留まったままの価値観で描かれた作品は、カビくさいだけのものなのか?
守るべき文化を棄てるべきではない、そう思う。

文学という定義は推移していくだろう。
時代が動けば、言葉も変わる。
言語とは、時代を如実に表してゆくものだから。
進化するとは、そのようにあるのでろうと、理解するから。

であるが、
本当に心のソコまで染みてくる文学が、数えるほどしかないということを、
私は知っている。
価値がないわけではない。

個人としてどこまでを文学と定義するか、
推移する文学の定義を、どこまで許容するか、
一方的にサラダ記念日を拒否しつづける父を、不憫にも思う。

旧世代の化石のようだ。
古いものが悪いわけではない。
新しいものが良いわけでもない。

これまでだって、斬新であるという理由で、
文学界は進んできた。

これからだって、きっとそうあるであろう。

父の思う文学が、古典となりつつあるのだとしたら、
古典の定義を変えるべきである。

生きている限り、言葉は進化するし、発展するものだ。
固定的な概念だけで、言葉が存続でき得るわけが、無いのだ。

世の中は、毎日、日々刷新されゆくのだから。


いまの私にわかるのは、須賀敦子が、私に必要な文学だということだけだ、
そう、1頁の無駄も無く、ずっと在るもの。
一行、一行、一言一句が愛おしい、そうあるべきである、文学は。
普遍的な価値観とは、文学であるという重要な要素に違いない。

この価値が、どうか存続し続けますように。

新進気鋭と、古典が、平行にありつづけますように。

文学の定義が、推移しませんように。

矛盾した願いではあるが、
願わずにいられない。

うん、薬オチで、もはや意識不明デス。

支離滅裂だったら、ごめんなさい。
でもいまは、私はこうあるしかない。

おやすみなさい☆

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#先の記事を読み返して、相当イタイこと書いてるな~と思い、
#半分以上の書き込みを覚えていなくて、他人の記事を読んでいる気分で、
#消してしまおうかとも思ったが、捨て置くことにする。
#これも私の真実だから、切り捨てる必要もあるまい、逃げも隠れも、
#もう、ムダであるかのような心境だから、いまは消す必要などないとする。
#ありのままというのは、清々しくて、悪くない。


#先の記事からの派生として。


心に、傷を持たない自我を持つ人間など存在しないことを、
これほどまでに思い知らされた年はない。

起こらないでいい事が起こるのも、
悪いことばかりが続くのも、いい事ばかりが続くのも、
誰のせいでもないことは、誰でもが知っているのだけれども、
どうしてかそれらは、いつだって、恨めしい事でしかない場合が殆どで、
選択肢を選びなおせるのならば誰だって選びなおしたい事象に、
一度ならず遭遇しているということだ。


私は前記に、ストレスを追いやりたいと、書いていたが、

「あのときこうしていれば、」への答えを見つけて、
自分を言いくるめたり、納得させたり結論を得ることを、
もうやめようと思う。
それこそが極上のストレスに他ならないのではないか?
そのように私の中の誰かが、言うからだ。

悶々と、永遠に、ドロドロした気持ちを引きずって、
時々思い出して泣いてみたり、そのように進んだり、止まったり、
それで、もう、いい。

繰り返しにはなるが、私には解らないことばかりだ。

だが、私は前記にある、この1年にありて、とりわけ、8月から9月、
それにこの3日間で、あらゆる人から矛盾を思い知らされることとなり、
理想や現実の狭間や、自分自身の深層に身を置いた。

その場所は、
死の淵、もしくは荒涼とした大地のド真ん中のどちらか、そのような表現がふさわしい。

そのような状況の私に、
完結もせずに、在り続ける存在であるその人らが現れた結果、

イヤというほどリフレインする過去や現在進行形の全ての事象について、
そのようなものに終止符を無理やりに打つ行為が、
どれほどムダなことであるかは、いともアッサリと証明された。


偶然は、常に必然であり、必然ならば、必ず偶然は起こるのだし、
ヒトとヒトの、繋がりやら、運命やら、縁やら、業やら、
とにかく何もかも、そういうものを言葉として説明しようものなら、
究極の個人的見解でしか、現せられないのだ。

ならば、他人に解る様に説明をする意味など、皆無としか言えまい。

ならば、永遠に、そのような何か、目の前に起こる全てのものに完結を求め、
終止符を打ち結論を得ることなど、出来ようがないではないか。

第三者から見て、終わったように見える物事が、
ほんとうに終わっているかどうかを、どのようにして、確認できるのか?

続いてゆく、終わらせない。
心が歪むほど辛くても、終止符など打たない。

何も終わらない、だから、何も消えない。

想いは自由であるばかり也。

私はなにも、隠せない。
自分を嘘で飾れない。
「必要な嘘」すらもう駆使しない。

自分がありのままで居られない虚構の幸福など、
私には何の価値もない。

だが、それは、誰にも理解できないらしい。
だからこそ、通りすがった全てのものが「去って行った」と思い込んだ。
真相を聞いたわけでも、告げられたわけでもないのに、
勝手な終止符を誂えたから、間違ったところに辿り着いた。

ありのままを知って欲しい。

その思いが強くなればなるほど、他人は私から遠ざかる。

それでも、もういい。
何かを説明することにも、遠慮することにも、自分を諌めることにも、
とても疲れた。
私は、終止符を打つという行為に、疲れたのだ。


再度、「以心伝心とは。」を読み返した。

つまり、それが、全てで。

だから、終止符を打たないという選択肢を、10月1日というキリのよい日に、
選ぶこととする。


つまり、

なにもかもは永遠。

魅惑的な響きであろう?
クーポン制にするべきだと、

現金支給ではないことを希望する。

一昨日、街頭インタビュで、
「コドモのために本当につかえるかどうか~www」
と、子供を抱いているオネエチャンが言っていたのを聞いた。
思わずテレビにむかって、ほざけ、この脳なしが、と悪態をついてしまった。

アホか、それはお前次第だろう?
てめぇのエロホテル代につかうか、パチンコ代に使うか、
オシャレ代に使うかは、人次第だ、そうだろう?

「子供手当て」という概念にさほどの異論はないが、
現金での支給だとすると、反対したい。

ゼッタイに子供のためにしか使えない制度にして欲しい。
上限2万6千として、給食費、某かの授業料、教科書代、制服代、
医療費、それらに掛かる経費としてだけつかえるクーポン制にして、
当月割り当て金額があまったとしても、当然翌月への繰越はナシ。
あまった分は親のフトコロに終われて、ホクホク♪なんてことは許すべきではないと思う。


現金ばら撒き、反対。
子供手当てという冠をいただくのならば、
子供の養育以外につかえる制度とすべきではない。


定額給付金のたった1万2千円くばるだけでさえ、
それなりに役所は経費を費やしたのだ。
クーポン制とするためのシステム構築経費が出せないわけがない。

ナニが何でも子供にしか使えない「手当て」制度とするべきだ。

子供のために使わずに、手当て目当てにボコボコ計画ナシに子供を産んで、
私腹とするアホが、増えないように。

 

 
なんとも、長崎県は1区を除き接戦だったように思う。
当確出るの遅かったデス。
参考先に長崎新聞HPを。

市町村別開票結果
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/senkyo/date/syuin/syoukai.shtml

立候補者詳細
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/senkyo/date/syuin/soku.shtml

昨晩は零時を回るまではテレビをみていました。
長崎全4区の結果最速は、1区。
ここは重工支配?労組がチョー強いのでしたっけ、、、大差でした。

希望どおり、2区では久間氏が落選、比例でもオチ、うん。
「農業しますよ」とは氏の「これから」だそうだ。

 
えりこちゃんには、これからが受難でしょうが、
なんとか踏ん張って欲しいものです。


3区、予想通り、山田氏(民主)の苦戦。
さすがの保守地盤。
大差のついた市区町村はなかったですね、、、
やはり自民が強いな、と実感はしましたが・・・
まさかの3区自民オチ、私の予想に反しました。
実は、山田氏(民主)が上がるとは思っていなかったのです。
どうせ谷川だろうな~、というのがホンネでした^^;
#まぁ、比例区ででは上がったわけだが。


だが、谷川氏(自民)は比例区での当選をうけ、
品のない発言を早速の披露。
「比例でもなんでも、当選は当選、合法だからいいっ」受かればなんでもオッケーな旨をインタビューで耳にしたが、
合法てアナタ・・・w
あんたヤクザかっつーの、それとも実は非合法で上がったのか?w
まぁいい。1票差だろうが1万票差だろうが、アガリはアガリ、違いない。


小選挙区4区全域で民主と化した長崎県。
建設業界はこの上ない危機感を抱いているに違いない。
私もそのナカのひとりである。
県央においては見当もつかない展開である。

振り子のブレは大きすぎたように思う。
政権交代には賛成だし、民主圧勝は予想はしたけれど、
もう少し、、、自民への揺り返しが起こるであろうと思っていた。

もう、気がつけば自民独裁だった日本。
民主にこれから、何ができるのか、
黒い潮流が、どこへ流れるのか、自民はどこに罠を張るのか。
小沢と鳩山の関係、麻生氏の今後、アレコレと楽しみな要素は山積みである.


政権を握ったその日から、、、
第一党となったからには、官僚含め各界との癒着は確実に始まる。
どこまで国民本位の政治を取り戻すことができるか、
お手並み拝見、まずは組閣、大臣だ~れだw

閣僚をひとりづつ狙撃するためのカードを、
もう「だれか」が用意しているのだろうか。

いずれにせよ、選挙で得た「民主圧勝」という結果の責任は、
投票した有権者、私たち国民にあることを、忘れるべきではない。
もう、政権は民主党に移ったのだろうから。

 

 

#選挙な記事は避けるべきかと思いましたが、やはり。


長崎県民として、
注目すべきは、私が選挙権を行使できる長崎3区ではなく、
やはり長崎2区であろう、と思う。

「自民の重鎮」とあるのは間違いない表現であろう。
初代防衛相という経歴に、自ら終止符を打った失言をスルーしてまで、
久間氏を自由民主党長崎県支部連合会は会長に置いているのだから。

だが、
長崎県民のすべてが、「原爆仕方ない」発言を忘れたわけではなかろうと、思いたい。
しかし、実に保守的な選挙区で、久間氏が手堅いと思われがちであるうえ、対抗馬とされる諸君のインパクトが希薄なのも事実ではある。

「政権交代」の対抗馬として名が上げられる対象は、
当然、民主党より白羽の矢をたてられた、福田氏だ。

「政権交代の象徴」 自民・民主総力戦(長崎2区)
※リンク先はiza!の記事です。

記事にあるとおり、薬害肝炎九州訴訟の元原告団代表として戦ってきた彼女に、政治のチカラがあるのかないのか。
そこを久間氏はウィークポイントとして押さえつける。
政治力のあるのは自分であると、演説ぶっている。
真理ではある。

忘れてはならないのは、私たちには、
次世代に継ぐ政治家を育てる義務もある、ということだ。
もはや後期高齢者に近づいている政治家を「経験」だけで推して良いのか。
経験だけで政治家を選ぶのであれば、新世代の政治家を、どこで育むのか。
団塊の政治家が「いちぬけた」といなくなったとき、
全てが素人という議会が誕生しないとも限らない。
そのことについての方を、より危惧すべきではなかろうか。

己がトシヨリに近づいて将来が不安になった時に、
役に立つ政治家は、今、年寄りである政治家ではない。


薬害被害者として、底辺を這ってきた彼女に、私は、
少なくとも、ぬえ・・・妖怪然とした行政との「渡り方」が身についているのではないかと期待する。
いち個人の弱さや、縦のものを横にもしない行政・政治・社会のシステムの不具合も、誰よりも理解しているに違いないと期待する。

育てていく。
自分たちの代弁者として立てるのだ、ただ頼るのではない、
政治家を育てなければならないのは、政党ではなく、国民なのだ。
その政治家を動かすべきは、政党でも、元政治家でもなく、
私たちでなくてはならないはずだ。


私は、ぜひ久間氏には落選していただきたいと思っている。

民主が、自民が、ではなく、
被爆地長崎の県民として、「原爆仕方ない」発言で大臣を失職したような政治家を、
再度、国会へ送るなどという恥知らずな行為を、許すわけには行かない。
愚鈍で保守的な県だと、思われたくない。
被爆地としての意地を2区の有権者には見せてもらいたい、と切に願う。
私に2区の選挙権がないのが、実に残念でならない。

だが、一騎打ちとは、思っていない。
今回に限っては福田氏にしか焦点を当てていないが、
どこにどれくらい票が割れるか、
興味津々である。


蛇足ではあるが、
長崎3区についても少々。
私はこの選挙区割りに、とても不具合を感じる。
朝日で申し訳ないが、、、

http://www2.asahi.com/senkyo2009/localnews/nagasaki.html

わが在住地である大村市は、
壱岐・対馬・五島という変革をきたしにくい保守一辺倒な島と、同一選挙区だ。
たしか、有権者数を比べると、たとえば大村市から超カリスマ立候補者がでたとしても、離島派がなびかなければ、勝てない仕組みだ。

本来、長崎県の県央であるべき大村市が発展しないのは、
島側の政治家しか3区にいないからである。
自民の谷川氏・民主の山田氏はいずれも五島がジバンであるからだ。
いずれでも、比例代表でどうせ上がるのであろう出来レースに見える。

おまけに、民主の山田氏は、
「私にはキャリアがある。これで当選すれば大臣のポストが待っている」とまで言いだす始末。
浮き足立って、皮算用を始めたあたりで、もはや県民の代弁者ではない、私欲のみの政治家に成り下がったように思う。
政界に立ち上がった当時の情熱を、忘れていないことを願う。

ひとつ。
3人目、幸福実現党の候補者が「山田」氏なのは皮肉である。
投票用紙に「やまだ」とかけば、票は半分コである。


最後に、選挙には、必ず行くべきだと断言する。
政治に意見が一切ない有権者など、いるものか。
かつてない高投票率をたたき出すのが、いまの日本国民の義務ではないのか?
選挙とは、数少ない、「国に関わるチャンス」なのだから。

行政を、明日から突然に変えることは不可能だが、
今現在の一票が数十年後の政策に、確実に反映されるということを、忘れるべきではない。
アツい政治家を使い捨てるもよし、
細く長く確実に育てるもよし、
いずれにせよ、未来は、今現在の一票に左右されるのだ。

さて、、、どうする長崎?

メダルをかじる行為は、

オリンピックや世界**で、
メダルを得た者のパフォーマンスとして定着し、かつメディア全般がそれを期待しているようだが、私には最低最悪レベルの不愉快しかもたらさない。

そんな行為を見て、はしゃぐ人の気を知ろうとは思わぬが、
「あれを見るのが楽しい人がいるのか~」という世の中の広さを思う。

どんなにか努力して得た結果であるメダルを、
本人がどう扱おうが自由ではあろうが、
「ヨカッタな」と思っている矢先、「メダルかじり」をやられた瞬間に、私はひどくガッカリしてしまう。
その裏にあるドラマがどれだけの多寡であろうにかかわらず、その選手の輝きは、私の中で、確実に失われる。


疑問に思うのは、
いわゆる報道陣に、強要されてかじっているのか、本人が「慣習」の踏襲をやりたくて好んでやっているのか、パフォーマンスとして定着しているならば、義務であると思って応えているのか、
そのどれでもないのか、全てなのか、
ということ。

いずれにせよ、私的見解として「みっともいい」ものではないことは確かだ。


たのむからヤメてくれないかな、アスリート諸君。


no! 有言不実行、無言不実行。

「座右の銘は?」という質問に、時々行き当たることがある、
たとえば、blogネタのバトンや、アンケートやプロフィール作成時などに。

長らく私は、
「誰も過去の柵から逃れられない」旨を記していたのだが、
近頃になって、(うーん、これよネ)と思うものが他に出てきた。

それは 「無言実行」 である。

これは、いままでの私の行動パターンであり、理想でもあり、
忌み嫌う人間性の対極にある言葉でもある。


”嫌いな人間”の最たるものとして、「有言不実行な人間」を挙げたい。
言うばっかりで何もしない人。

寡黙こそ美、とまでは言わぬが、ペラペラと出来もしないような理想ばかりを、
さも得意げに口上する人間を、私は好きではない。

「知ったかぶり」と「くちばっかり」という人間には辟易しているからだ。

日常から肝に銘じていることのいくつかに、
「くちは災いの元」
「知らぬは恥ではない」
「ムダ口を叩かない」
などがある。

だから、言葉を選ぶあまりに、返事をするまで異様に時間がかかったりする。

だから、あいまいな記憶しかない話題や、
うろ覚えなことに関しては、「ぇー知りません~」とドコででも誰にでも、
バカかとおもわれるほどのネタでも、はっきり告げることにしている。

それを、ずるい人間といえば、そのとおりで、
「出来もしないことを言うくらいなら最初から言わないで、やらないほうがマシ」
もしくは「うかつなことを言って、足元をすくわれるのはゴメン」という、
逃げ腰的な事なかれ主義と、言えなくもない。

だが、私は平穏に過ごしたい。
得がたい環境であり、困難な理想ではあるが、とにかく平穏無事に暮らしたい。


そして、理想の一つに、「何でも出来る人」というのがある。

身内にさえ周知せずにこっそり知識を仕入れたり鍛錬したりするのが好きで、
誰も知らないうちにかなりマニアックな人になっていたりする。
これも、習得できなくてもバレずにすむから公言しないだけ、でもある。
公言しても、実行しつづける忍耐力や努力や自信やスタミナが無いだけ、でもある。

たとえば、「英会話はじめたんだ~」等とクチにだして言えば、
身につかなかったり、三日坊主で終わりたいときに、決まりが悪いからである。

保身、
高いプライド。

でも、それだけではない。

人間として、広くも狭くも社会においてやらねばならないことは、
言われなくてもやる人間、出来る人間でありたい、そう思っている。

常々、「こうありたい」と思っていても、
やるべき場面に出くわして、出来なかった時ほど、
痛烈に無力さを感じる時はない。
なんと自分に勇気のないことか、情けなくも悔しくも複雑に思い、
「次」など来るか来ないか分からないが、「次はそうしよう」と思うものだ。


多少、路線が外れるが、
未だに後悔してその度に胸がモヤモヤする事件が数年前にあった。


手押し信号の横断歩道での出来事である。
私がボタンを押して信号の変わるのを待っているとき、
もう一人若い女性(学生?)も後から来て、一緒に待っていた。

渡りたい道路は国道で、田舎の幹線でもある。

ちょうど歩行者信号が青になる頃、右手から救急車がやってきた。
運転者ならば当然、救急車をやりすごしてから自分が渡ると思う。

私は、運転免許をもっており、当然その思考で行動した。
つまり、渡らずに救急車のすぎるのを、待っていた。

ふと気がつくと、隣にいた女性は、何食わぬカオで、
ダラダラと、急ぐでもなくマイペースに横断歩道を渡りだしたのだ。

このとき私は(彼女を止めるべきじゃないか?)と瞬時に思った。

救急車は彼女が渡るのを、しかたなく、待つべく停止した。

とっさに、口に出せなかった、たった一言を、
考えている間に彼女はもう半分も進んでいた。

私は、もちろん渡れもせずに呆然としていて、
彼女が渡ったあとに救急車が通り過ぎ、そのあとで横断歩道を渡った。

左右に赤で止まっている一般車両の注目を浴びながら、いたたまれなかった。

一生忘れられないくらいの不覚だと思う。

どうして、青だけど 「待ちなさい」 と言えなかったのか?
救急車の患者は大丈夫だったのか?
目撃していた人は私が「止めるべきだったでしょ、」と軽蔑しただろうか?
社会上、彼女の目上の人間として、やるべきことが出来なかった。
「待って!」そのひとことだけで、よかったのに。

イタイ、ほんとうにイタイ思い出だ。
今後何度も、私の不覚を思うたびに、
折に触れ引き合いに出すであろうくらい、痛烈な出来事だった。


「無言実行」とはいえ、これだけは公言しておきたい、と思う。

「言うべきときは言える人」でなくてはならない。


小さな勇気が、たくさん要るけれど。

以心伝心とは。
誰かと、
前に、言葉を持った生き物として、
言葉の世界に居る者として、言葉は大事にしたい、
言葉を聞きたい、尽くしたい旨の話をした気がする。

実体同士が対面しないネットオンラインにおいては確証が持てないが、
近頃、身にしみる真実として私の頭で反復されるフレーズがある。

言葉にしないでも伝わる人には伝わるし、いかなる言葉を尽くしても、伝わらない人には伝わらない。

つまり言葉で伝わるくらいならその前に伝わっているということだ。
言葉を交わすことは単なる確認作業に過ぎない。


心、つまり気だろうか。
気配、とかいてキクバリと読むかケハイと読むか。

気を配られている相手に伝われば「気が付く」、では何にきがつくのか。

それは心配に、だ。

またもや、心配とかいてシンパイと読むかココロクバリと読むか。

不安がることばかりがシンパイではない。

不幸や不慮がおこらない心がけこそがシンパイであるのだと思う。
その心が乗った思いが気だと思う。

まさに、気は言葉にならない思い。

同席している人と言葉を交わしても判り合えないのなら気が合わないということであり、その後その人と心が交わることは稀だと思う。

1を知って10を知ると言うように、
最初に気が合うと感じた相手とは程なく理解し合えるようになりやすい。


人には言葉という手段があるおかげで、
争いが絶えないのではないか。

ケハイだけで判り合える野生は、
無駄な争いは決してしない。

昨今、言葉を用いて、なんとか思う通りに相手を説き伏せよう、
あるいは、言いくるめよう、騙そう、
支配しよう等といった、奢った考えが横行している。
本来、人間にもあるはずの、相手の気を受け止めようとする野生の勘が薄れつつあるのは、
洒落た言葉に傾倒しすぎたがための応報ではないか。
だが一方で、心打つ演説や気の利いた言葉は、
やはり聞いていたいものでもある。

そこには心がこもっているからなのだろう。

現代の何もかもが薄っぺらな現実に見えるのは、
あらゆるメディアから溢れ押し寄せてくる文字や写真や音声といった「気」のない情報に支配されているからではないのか?

生身の人からしか感じられないケハイに、人々は飢えている。


心はナマモノだ。
しかも刻一刻と姿を変える。
その場に居なければ心のすべては伝わらない。

心には心を以てしか心を伝えることは出来ない。


だが、その断片でもせめてという思いで言葉を綴る。
人間はなんて切ないのだろう。


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自己紹介:
こんにちは、廈淡(カタン)です。
のんびりマッタリ、多岐ジャンルにて創作・制作・製造活動にあこがれる妄想家です。

カタンの発祥はNiftyServe。バンドB・chでのハンドルネーム。
詩のフォーラム(FPOEM)ではハンドルネーム七風(ナナセ)で、暫し在籍。いずれも1996年頃~。
当時の作品は書庫に格納作業中。
その後、1997年5月にサイト「十字架工房」を立ち上げたが、あれこれ変遷。
縁がある、と思われる方はぜひコメント、トラックバックをblogから、メールをフォームから。
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