忍者ブログ
サイトメニュー x TOP x 書庫カテゴリ一覧 x loose mader CH x 防水魂で逝こう♪ x FF的激個人的手記 x +JUST FLYing+第三の鳩+ ver.跡地 x メールを送る x 【loose mader】について x
コンセプトブランド「loose mader」構想を妄想する日々の雑記weblog!
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

珍しく残業。
#まー、普通の人の残業よりかなりヌルいけどね。

例によって今ハヤリの、天井裏のない家だ。
2階床裏あらわしとか、梁見せってやつだ。

電気屋泣かせなんだよな。

来客やら体調不良でボケーとしてたら、
なんやらモッサリ仕事きてた罠。

大体、そうだよね。
それまで電話一本ならないくらいヒマだったのに、
人が具合悪いときに限って家人が留守になったりとか、
「急ぎ」とかいう仕事は重なるものだ。
世の常ってやつだな。

そして、そういう時って大体、
私を取り巻く環境にいる、話ししたい人も、メール欲しい人も、
誰も私に構わなくなる。

そんなタイミングで、
放置してあったほうが仕事はかどるやん?とか思うやつはオカシイと思う、
キツいときほどかまって欲しい、私としては。
応援団はいたほうがいい。
ヒトリで頑張れるニンゲンが羨ましい。

でも今日は、欲しかった本があまぞnから届いた。
でも今日は、読めないだろうな。

風呂とか入りたいし、
もう自宅持ち帰りで仕事やん、、、


あーもうゲンナリ。
4日前くらいからのコンデンサか抵抗がコワレかかったような、
キレかかったような感じが治らないと思ったら、
立ちくらみか、脳貧血やら脳酸欠やらのときに見えるような、
白いモノが、チカチカしたような、星が視界の上のほうに。
今朝は、はじめて発作ではない眩暈があって、
カンペキに平衡感覚が逝っちゃった状態で、
ぐるぐるしてました。
こゆう症状は、初めてです。

歩くのが怖かった。
本人普通にあるいてるのに、車道のほうに倒れたがるし。
・・・気がつかないうちに、倒れかかるんだもん^^;
さっき、トイレから出るときに、アタマを壁にしたたか打ち付けちゃった;
いてーョ、いてーよ!!(っ`Д´)っ マッタクもう。

あー、もうほんと、私ドコいっちゃうんだろう。

明日は病院の日です。
とりあえず、昼の分、減らした薬、もどしてもらおう;;;

だから、いま、明日病院にとられる時間の分も仕事してるわけです。
ていいつつ書き込んでる。気分転換だからいい!(と正当化)
だって、なんだろ。
メールでやりとりしてたら、その人にちょっとヤな言い方しちゃったので、
すぐに素直に謝ったのに、どうもそれが、伝わらなくて余計、悲しくなっちゃって、
吐き出してリセット。
コレ、溜め込むと支離滅裂に攻めたくなるので。

#珍しいんですよ、私がすぐに謝るなんて、チョー異例。
#それくらいそのヒトに弱いんだな、きっと、ということに書いてて気がついた。

てことで、今日遊んだ(仕事にならなかった)分、この先4時間くらい持つように、
なんやかんやで脳ミソさんをブーストアップしたので、
いまちょっと復活してるうちに、
風呂いって、仕事やっつける。

PR
#先の記事を読み返して、相当イタイこと書いてるな~と思い、
#半分以上の書き込みを覚えていなくて、他人の記事を読んでいる気分で、
#消してしまおうかとも思ったが、捨て置くことにする。
#これも私の真実だから、切り捨てる必要もあるまい、逃げも隠れも、
#もう、ムダであるかのような心境だから、いまは消す必要などないとする。
#ありのままというのは、清々しくて、悪くない。


#先の記事からの派生として。


心に、傷を持たない自我を持つ人間など存在しないことを、
これほどまでに思い知らされた年はない。

起こらないでいい事が起こるのも、
悪いことばかりが続くのも、いい事ばかりが続くのも、
誰のせいでもないことは、誰でもが知っているのだけれども、
どうしてかそれらは、いつだって、恨めしい事でしかない場合が殆どで、
選択肢を選びなおせるのならば誰だって選びなおしたい事象に、
一度ならず遭遇しているということだ。


私は前記に、ストレスを追いやりたいと、書いていたが、

「あのときこうしていれば、」への答えを見つけて、
自分を言いくるめたり、納得させたり結論を得ることを、
もうやめようと思う。
それこそが極上のストレスに他ならないのではないか?
そのように私の中の誰かが、言うからだ。

悶々と、永遠に、ドロドロした気持ちを引きずって、
時々思い出して泣いてみたり、そのように進んだり、止まったり、
それで、もう、いい。

繰り返しにはなるが、私には解らないことばかりだ。

だが、私は前記にある、この1年にありて、とりわけ、8月から9月、
それにこの3日間で、あらゆる人から矛盾を思い知らされることとなり、
理想や現実の狭間や、自分自身の深層に身を置いた。

その場所は、
死の淵、もしくは荒涼とした大地のド真ん中のどちらか、そのような表現がふさわしい。

そのような状況の私に、
完結もせずに、在り続ける存在であるその人らが現れた結果、

イヤというほどリフレインする過去や現在進行形の全ての事象について、
そのようなものに終止符を無理やりに打つ行為が、
どれほどムダなことであるかは、いともアッサリと証明された。


偶然は、常に必然であり、必然ならば、必ず偶然は起こるのだし、
ヒトとヒトの、繋がりやら、運命やら、縁やら、業やら、
とにかく何もかも、そういうものを言葉として説明しようものなら、
究極の個人的見解でしか、現せられないのだ。

ならば、他人に解る様に説明をする意味など、皆無としか言えまい。

ならば、永遠に、そのような何か、目の前に起こる全てのものに完結を求め、
終止符を打ち結論を得ることなど、出来ようがないではないか。

第三者から見て、終わったように見える物事が、
ほんとうに終わっているかどうかを、どのようにして、確認できるのか?

続いてゆく、終わらせない。
心が歪むほど辛くても、終止符など打たない。

何も終わらない、だから、何も消えない。

想いは自由であるばかり也。

私はなにも、隠せない。
自分を嘘で飾れない。
「必要な嘘」すらもう駆使しない。

自分がありのままで居られない虚構の幸福など、
私には何の価値もない。

だが、それは、誰にも理解できないらしい。
だからこそ、通りすがった全てのものが「去って行った」と思い込んだ。
真相を聞いたわけでも、告げられたわけでもないのに、
勝手な終止符を誂えたから、間違ったところに辿り着いた。

ありのままを知って欲しい。

その思いが強くなればなるほど、他人は私から遠ざかる。

それでも、もういい。
何かを説明することにも、遠慮することにも、自分を諌めることにも、
とても疲れた。
私は、終止符を打つという行為に、疲れたのだ。


再度、「以心伝心とは。」を読み返した。

つまり、それが、全てで。

だから、終止符を打たないという選択肢を、10月1日というキリのよい日に、
選ぶこととする。


つまり、

なにもかもは永遠。

魅惑的な響きであろう?

#ひどい、では語弊がありそうであるが。
#ありていに申す、そのようなスタンスで。薬と酒に、感謝と忌々しさを込めてこの記事を。

ひとときまえ、
大切な人が、倒れたハナシを、どこかでしただろうか覚えていないのだけれど。
奇跡的に身体能力の後遺症は残らなかった。
神に感謝したほどだ。
ただ、言葉を生業とするその人には、言語を操ることへ少々の不具合が、
残ったようだった。
身を切られるように辛いことだと思う。



まず、
年明けてほどなく、ありえない人から、ありえない告白を受けた。
こちらにも常識的な好意がないわけではなく、だけれども、
受けるべき話ではないから受け流しつつ、数ヶ月、お茶を濁してすごしていたが、
エスカレートしてきた相手の感情を、もてあまし気味になりつつも、
自分の心のヒマさが災いして、メル友を続けていた。
しかしあまりにも不毛なので、決別を告げたとたん、逆ギレされたような扱いを受けた。
これは5月のハナシだ。


その後、もう数年、
ずっと話をしたくてしたくて気になっていたFFのフレの電話に、
私はとうとう電話をした。
根底を流れる何かのシンクロ率の高さは、
一生、これを超えることなど、ないだろうと思うほど、私たちは話をした。
これは6月下旬のハナシだ。


しばらく電話で会話を続けているあいだ、
私たちは、とても通い合うような感覚を共有していたと思う。
7月のハナシだ。
8月、二度とないような時間を過ごした、ほんの12日ほどあと、
超絶的に拒絶されはじめた。
ありていに言えば、きっと私が何か「ヘマ」をしたのだ。
そして、「無視」という私が一番苦手な手段で、的確に私を遠ざけている。

その戦法は、完璧だ。

敵にしたくない人だと思っていたけれど、案の定。
だが、本意がまったくわからないから、私はフリーズしている。
動けない、凄く惨め、凄惨ということだ。

命をきっと、かけていいと思ったのは、生まれて初めてだった、
そして、私の「縛り」の全てを開放した瞬間、だが見事な翻りで、消えて見せたヒト。
「きっと君は俺をきらいになる」と言ったそのクチで、
私のほうを先に嫌いになったのだ、そう言ったも同然のように、状況判断をするほか、
私には術もなし。


自分の自律神経、交感・副交感神経のいい加減さにウンザリだ。
完璧な昼夜逆転、それが交互にやってくる、シフトするときが一番キツい。

兆候はあったけれども、その後の2週間をかけて徐々に、
私は完璧に眠れなくなった。
シルバウィクの前の週に、主治医にその旨を伝え、
睡眠導入剤と、主剤への補助を復活してもらい、
無理やり寝ている、それは今もだ。
それからあとの2週間、誰彼かまわず電話とメールを続けてきた。
そうしないと本当に、「精神」が、に死にそうだったから。
おまけに薬の効果が飲酒と相俟って、激しくでるときがあり、
記憶喪失になるようだった。
朝、記憶にない発信履歴を度々見たときは、本当におどろいた。

その昼間、
反動で、泣いたりキレたりしないように、薬をガッツリ飲むようにしたので、
もはや昼間も記憶があやうい。


この世の中では、誰もがたった独りだということは、とても当然のことだけれど、
受け入れるには、とてつもないパワーが要ることを、私は経験からすでに知っている。

相手には迷惑だったろうけれど、メールとケータイ通話のターゲット、
最終的にその相手は1人になったし、実に正論で私を説教する、
ありがたい存在だと、感謝している。
そろそろソレも、卒業しないと、そう、思う。
たぶんものすごく迷惑をかけているのではないだろうか。

実際、きのう説教された記憶があるのだが、後半は会話の内容を
あまり覚えていない。

ほら、こうやって、ひとりじゃないって解かるのに、それなのに、
それなのに、情けない、な。

そして、いま、今日は我慢しろ、と言われて放置されている、
1人で居たくないときに限って必ず、お蔭様は私にこのような仕打ちをする。

つまり、排除されはじめて一ヶ月後、それが今だ。
どうしても1人でいたくない、そういう日に限って、放置、いつものコトだ。


きのう、冒頭の彼のヒトの父母が来崎し、
そして、今日、倒れた本人が、現れた。

9年前にあったときより、痩せていたけれど、
穏やかそうで安心した。


私にはわからないことが多すぎる。

なんだというのだろう、
今年は。

次から次へと人々がやってくるけれど、誰も私の前に立ち止まらない。
時折そのようなひとがあっても、実に刹那的な一瞬であり、
そうでなければ、私が逃げ出すのだ、決まって。


今日フイに現れた、その人は、状況的に、
私と結婚していないコトのほうが不思議なくらいの人だった。


自分が14才くらいの頃から、お互いを「存在」として意識して以来、
交流が途絶えたことはない。
当時かかえていた、青春クサい悩みや葛藤を誰よりも分かち合い、
2人ともが、それぞれの世界で、ドロップアウト組だったので、
励ましたり、叱咤したり、遠距離だったこともあり、切ない年月を綴ってきた。

お互いの立っているフィールドは、つまり文壇であり、だから、
戦友で、友人で、ライバルで、理解者だった。
だが、いわゆる、ファイナルアンサーで、
逃げ出したのは、私のほうだった。・・・それだけだ。

その人は、今は違う人と幸せに暮らしている。
倒れるというトラブルはあったけれど、生きていてくれたことに、
本当に感謝している。


それでも、なんと自然にそこに居あえることか、
聞きたいことや、募らせたであろう思いの色々をお互いにクチにせず、
皮肉なもので、私の「以心伝心論」の根源たる史上人物なだけに、
あまり会話をしないまま2時間半ほどウチの居間で、過ごした。

幼いながらに、何もかもを超越していたお互いであったため、
私は、それだからこそ、しり込みしたのであって、
彼の父は、私が嫁に来なかったことが不思議だったような、
きみがよかったなぁ、そのような旨のコトを、数年前に言われた。
それくらい、長い付き合いだったのだな、と実感し、私は何か、間違えたのだろうか、
そう思わずに居られなかった日々。


今日、その、ながい空白の時間は、確実に埋まった。

切ない、稚拙でも、言葉を敬うの世界に生きる同志として、
彼の文才の全ての再起を、心底、願わずにいられない。


9年か、長いな。

もうひとり、同じ年月日分、会っていない、大事な人が、いる。
言葉として表現するならば、私の分身。
共有した時間はきっと、他の誰よりも短いけれど、
同じ年の、同じ日に生まれ、おなじ孤独を抱えている人。
必然でも偶然でもかまわない。
気が付いたら、彼は、そこに、居た。
そしていまも、支えてくれている、柄のような存在。
それでも私は揺れている。
都会は、きっと私には耐えられない、だからといって山も無理ではないだろうか。
根源的に治らない疾患が、私を臆病にする。
イヤでイヤで、ほんとうに涙が、止まらない。

誰も彼もが通り過ぎてゆく理由は、自らがイタイほど知っている。

こんな、両足で自分自身さえ支えきれない人間などを、
どうして愛してもらえるだろうか?
重荷なのだと、バカな私にでさえ解かる、単純なことだ。


それでも、
なんなのだろう。


もう一年が終わるかのような記事になった。
でも猛烈に長い一年だ。
まだ、10月だなんて、ウソのようだ。

いま、きっと意識ないだろうと思うけれど、打ち込んでいる。

眠らない限りまだ9月だ。
禁酒は10月からでもいいし、しなくてもいい。

「私」など、もうだれも、気にしない。


それでも、
なんなのだろう。


今年くらい、ヒトが私の前を通りすがったことは、ない。
めまぐるしくて、何が起こっているのかトロい私には、ちょっと理解できない。

それくらい次から次から試練としか思えないような結果だけをもたらす出来事が、
起こっては、過ぎ去ってゆく。

それらは代価として私から何かを奪ってゆく。
たとえば一週間で100gずつの体重とか、
一週間のうちの3日くらいの記憶とか、
唯一、信じた絆とか、
見せ掛けの希望とか、
頼りたい友とか、
明日への生とか、



だが、どうだ。

私が文筆したがるときは、困窮した精神状態のときが殆どで、
わが身が平穏だと、何も生まれないことを、私は知っている。


ただ1人にだけ言ったことがある、わたしの無謀な夢。
けなすこともなく、否定することもなく、何の抵抗もなく応援してくれた。
驚いた、
たとえ、それが建て前からの発言だったとしても、
心に、それは、浸みたのだ。

それに挑むことしか、
いまの私には思いつかない。

だが、何もかもより、私が気を配るべきは、
ストレスを一番に避けるべきであることも知っている。

たった1人に排除され、その存在を失ったかのようなだけで、
このダメージは、ありえない。
でも、受け入れないといけないというのならば、
何かの罰として、甘んじて身を任せるほかない。


私が絶対というときは、「ほんとう」に絶対のときだけで、
それで、つまり、私は、絶対に、二度と、癇癪がおこっても、
モノに当たらないと誓った。
この癇癪は不可抗力で、意思とはまったく連動しない、ただの神経作用だ。
トラブルがあろうが、なかろうが、突然やってくる。
傾向として、
薬の抜ける頃か入る頃、睡眠と覚醒が葛藤する頃、そのどちらかだ。

私は、とてつもない理性の強さで、まだ死なずにいる、そう感じることがある。
反面、とても些細なことで不安定になる、諸刃の刃、そんな感じだ。
どちらに転んでも、死だけを切望している。

いまも、とても切れの良いクラフトはさみが右傍にあり、
頚動脈を切ってしまえと、せきたてる私が、いるのだ。


ただ、近頃漠然と確信しつつあるのは、
二度と、何もかもの、だれか私以外の人の、
考えや思想や理想や行動、言動、価値観を、絶対に否定しないと誓いたいということ。
そうあればきっと、私をそのように受け止めてくれる何かが、
現れるかもしれないから。
死んでしまったら、それすらもう、解からないままであり続けないといけなくなる。

死に時は今では無い。


今日は、午後から事務所に1人だったので、こういうときは至福であり、
とにかく発散するためにずっと歌っていた。
4時間くらいずっと歌っていた。
メディアプレイヤと動画サイトでずっと音楽を流しながら。

筋緊張緩和剤を数倍飲んだら、心臓は止まらないのだろうか。
飲んでみる、
37度のジンはとても利かないけれど、ビンの半分も飲めば、効果が出るだろう。


私が今日、ハナシをしたかったひとが私を今日放置をしたことで、
すでにもう眠れない、こんな時間に起きている。

バカみたい。
アホみたい。

おろかで、なんて気の毒で、可愛そうな私。

そうそう、今年という年、明けてから、一年だって経っていないのにね、
あと3ヶ月もある、次は何が起こるのか、起こすのか、

もう何でもくれば?
何が起きても、もうきっと、わたし、驚かない。


凄惨である

#8月の、6日、9日、15日といふ日を思い出さぬば
#かの地が被爆地であると忘れてゐると、さう謂ふ友ありて。


当地と部外地の温度差を、殊更に、知ることは

凄惨、である。

忘れてはならぬと声にならぬ声で
日々、日夜、朝な夕なに一日千秋の戦後を辿りながら
「ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ」と訴えて続ける人々の声は
ほんの数ミリ先にしか響かないのであろうかと知る

凄惨、である、

私たちは、長崎のテレビ局を筆頭にして、それらから、
毎日それこそ365日「被爆地長崎」「非核」「ヒバクシャ」「原爆」「核」
およそこれらの単語を聞かない日を得るには
それはテレビ新聞ら全てから必死で逃れ、隠れ、
遠ざからないと無理であるというのに。

地方ニュースで「被爆者100人の証言」というものをやっている

メシ時であるのが辛い
真実涙を流しながら耳で聞き、心で聞くことも多々ある
そうやって私たちは紡いでいくのだ、体験もしない核爆弾の恐ろしさを
この地で生まれ教育された「戦争を知らない子供」たちとして
しかし、途切れさせることなく連綿と、淡々と義務的にでさえあれ、だが確実に。

だが、一歩そとへ出れば、どうだ

被爆した日時を正確に即答できる日本人は、何人いるのか

核を開発した科学者の名を知るものが、いかほどいるものか

落とした軍機の名を、操縦士の名を、知るものが、いかほどいるのか

現実は、

凄惨、である。


原爆資料館を見たことがあるだろうか
もう、ひとときたりとも居たくない、そう思うほど恐ろしい場所
語り部の話は、耳をふさぎたくなるし、
事実顔をそむけて逃げ出す輩のいるほど

原爆の記録映画を観たことがあるだろうか

そこいらの空襲と、戦争と、比べてはならない
絶対に比べるべきではない、
それは根本からして別次元の、出来事であると断言したい


死者の、被害額の、多寡ではない


いまなお苦しんでいる被爆者、2世、3世がいることを
知らない人がいること それが
どういうことなのか、それを思うとき 涙を流さずにいられない

被爆地であるという認識を、年に一度しか思い出さないという現実
それがどういうことであるか、それを思うとき

凄惨、である、
ほんの一瞬、地の上に立ち、目に見えぬ粒子に貫かれた、父、
母、兄弟姉妹、祖父祖母、誰も彼もの無念をば思うとき

とても酷く 暗雲たる渦中へと 放り込まれたような恐ろしさと、
不安だけではなく、凄惨な予感を伴うことが、
凄惨であるのだ。

荒廃している、平和ではない 現代は
被爆とは何たるかを知らないことを、平和とは表現しない

歴史を知ることは、意味のないことではあるが、知らなければならない。
平和というウソに包まれたまま、それでも、最後の被爆国たれ、と
今日も被爆地は叫び続ける

被爆地において被爆地であるという報道を毎日くり返しても、
空しいのではないか、そう感じることがすでに

凄惨、である。

真実も史実も将来も、机上の資料となりつつある
戦争を知る先人が誰一人いなくなった時は、どうだろう
何が起こるであろう、
報道のスタイルは、変わるのかもしれない。
生きている先人に敬意を払わずにすむであろうから。


先の総理が申した旨、
「イチ、ニのサン、で世界中が同時に手放さない限り、絶対にムリ」
この意味が、解かるだろうか。
核の排除は、もう幻でしかない
夢物語に他ならない
素晴らしく率直で、かつ真実だと、どれくらいの人が理解しているだろうか。

核を以って核を抑止する。
いっそ全ての国が核保有国になるほうが現実的である。

それでもなお、長崎は訴え続ける
それがことさら凄惨であると解かっていながら、


凄惨、であるのだ。

忘れられていくということも

記憶が薄れていくという事も

すべて罪のように思える

植えつけられていくヒバクチの住人という意識も

図書館の歴史資料となりつつあることも、

なにもかも、すべて。



#でも、だから、読んいでる 敢えて。


「ノルウエイの森」

出端の3頁で、ゲンナリするほどの駄文現代小説か、と思った。
この程度で作家と名乗れるのならば、
「運さえあれば誰でも作家になれるだろうな」、
生きている作家で近頃刊行される小説や文学の、
なにもかもに感じる第一印象の例外とはならない本、と思った。
読みきるまで文学なのかどうかを言えるか、断言しないが。

かの作家の本を初めて読む。
偶然に母がヒマつぶしに買ってきた単行本が、まわってきただけの状況。
私は、いま、ほとんど買わない、本を。


なぜ今、映画化なのか?ということだけはすぐにわかった。
これは、いまだからこそ「映画」になって売れるシナリオ、と思った。

問題は私が読めるかどうか。
とにかく集中力があるわけもなく、散漫としつつ読書というのは、
とても難しい。
本を開き、一度で5行しか読めないときもある。

だが、問題は他にあった。

泣けて泣けて仕方がないのだ。

わたしは今、「ハシが落ちても泣ける」精神状態。
だが、日々は容赦なく前に進んでゆくので、仕方なくやり過ごす。
違う誰かが毎日出てきて、「1日」を消化する。

それでも、つい、この本を開く。
一度で5行でも、読めば先にすすむから。

笑えるべき頁があるように思うのだけれど、そのいちいちでさえ、
泣けてくる。

とにかくそこに描かれている事物は、ことごとく私を泣かせる。
ヤバい本だ、読むな、そう、誰かがいうのだけれど、
泣きたい気持ちを押さえ込んで一日中を耐えて過ごした、そのあとの夜に、
つい1行、1行とすすめてしまう。

そうやって、そこに描かれている、
自分の何かのことや、未来のことや過去のこと、
妄想のこと、現実のようなもののこと、サル芝居のようなもの、
私自身や、深層に澱としてある泥、そんな何か、そんないろいろが、
とにかくざわめく。

一般的に言う「泣ける本」なのかどうかは、知らない。

とにかく私は、苦行でも積んでいるような思いで、
泣きながら、読んでいる。
脳は、あるひとつのことだけを考えながら、目でだけ、読んでいる。

目から入ってきた文章が、
心象風景と重なる。
脳でではなく、心が読んでいる。

イタイ。
とても。

だからいい。
きっとこの本は、最後まで読む。


読み終わる頃、ウツになっているかもしれない。


友人が、
『「スカイ・クロラ(アニメ映画の)」をみたひとが、みんな、
これみたあと鬱々した気持ちになるっていうから、まだみてないんだよね』
といっていた少し後、私はスカイ・クロラを見た。
鬱々したかったからだ。
繰り返し2回見た。
あまり、期待したそのような効果は得られなかったが、確かに、
絶望や、ムダな努力や、惰性、 それらから逃れるにはどうすればいいのか、
などを、ごく単純に、思い知る結果となり、つまり、
それを「出来ない自分」=「やらない自分」である、という当然を、認識した。
そういう感じをかの人々は「鬱々」と表現したのだろうか、と漠然と理解した。


いま読まないほうが良い、そう警鐘のなる中、
どうして私は読みたいのか?

答えはきっと、本当の私が、知っている気がする。


誰か来てる・・・
毎日この時間頃だとおもう。
背中がゾクゾクゾクゾク・・・・する・・・

長崎はまだ毎日暑いし、エアコンの中にいて暑いくらいだが、
「さむけ」「おかん」がするんだョ、なんだ、これ。。。

同じ時間頃に、私のことを考えてる人がいるらしい。
思い出して日参してもらえるのはありがたい。

問題はそれが、誰か、なのである。


死霊か生霊かお蔭様か、わからん。

右でも左でもない、上から下まで背中・・・

さむい、、、さむいよー(;´・∀・`)・・・・

心当たりが、2,3・・・ないでもない。


ゆっくり 交流するとしよう・・・
問題は必ず解決する、望んだ結果かどうかは別にして。
かむろば村のなかぬっさんが、そういってたww

#ダイスキだったんだょ、あの漫画・・・・

願わくば、望む方向の結果でありますように。
てんこく。

自分に課した課題をしっかりこなしたのは、
本当に久しぶりです。

知り合いの方が、趣味として始めた絵画。

まさかこんなに!って思うくらい素晴らしい才能を
持っていた人でした。

今は水彩を主に描かれてるから、
私はそれに押す 印章をほってあげると約束しました。
雅号をまだ持たないので名前を彫ったのですが、
ホントは名前は白文が一般的で良かったのかな(´∀`)
と思いつつ、朱文で3本。

ビミョーな出来となりましたので、
雅号をキメル頃には、また彫りたいです。

てんこく は、 好きなんですね。
石をほるわけですが、
久々やったら楽しかった。ちまちまやったから1ヶ月くらい?
本気でやれば1日でアガルんですがね(笑)


むふん。

不眠気味だし、カラダが辛いことが続いてますが、
いまはそれが すごく幸せな状態であります。
泣いたり笑ったりの終戦記念日から1ヶ月。
副作用は、まだまだ続いて、泣いたり泣いたり笑ったりしています。
1ヶ月かかって解ったことは、私は大バカだということだけでした。
それが解りかけた頃から、まっすぐになりつつあるのですが、

そんな中で作り上げたのは、自分、偉いっ て、
誉めたいデス(笑)






散歩しながら。
TSUTAYAまで行く途中デス。


夜道をゆけば、闇の下に灯りが見えますが、
その輝きのクリアさと、涼しさが、
秋だと教えてくれてます。


絶望するときって、…「何に」ってコト、ないんですね。

いきなり、来るんだ。

何かにではなくて、すべてにってコトなんだなぁって、
解りました。


平和な時間に、ゆるやかに散歩しつつ。

そんなコトを知りました。

誰もいない。


さようなら、世界。


そんな気分(笑)
夜は、いいな、私が解放される。


TSUTAYAついた(´∀`)



忍者ブログ / [PR]

photo by 7s
パーツ & リンク
↓↓とりあえずコメントしたい方↓↓
足跡帳∞掲示板

アフィリンク
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新の記事
2016年01月26日
2014年08月18日
2013年07月24日
2013年04月26日
2012年07月26日
最新のコメント
⇒10月31日 シンバ
⇒10月31日 シンバ
⇒07月08日 カタン
⇒07月07日 えあり
⇒03月25日 カタン
最新のトラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN: 廈淡
HP: x loose mader x
性別: 女性

自己紹介:
こんにちは、廈淡(カタン)です。
のんびりマッタリ、多岐ジャンルにて創作・制作・製造活動にあこがれる妄想家です。

カタンの発祥はNiftyServe。バンドB・chでのハンドルネーム。
詩のフォーラム(FPOEM)ではハンドルネーム七風(ナナセ)で、暫し在籍。いずれも1996年頃~。
当時の作品は書庫に格納作業中。
その後、1997年5月にサイト「十字架工房」を立ち上げたが、あれこれ変遷。
縁がある、と思われる方はぜひコメント、トラックバックをblogから、メールをフォームから。
詩作品への感想も真摯に受付中。
credit LINE
(c)copyright 2010 loose☆mader.
All Rights Reserved.