忍者ブログ
サイトメニュー x TOP x 書庫カテゴリ一覧 x loose mader CH x 防水魂で逝こう♪ x FF的激個人的手記 x +JUST FLYing+第三の鳩+ ver.跡地 x メールを送る x 【loose mader】について x
コンセプトブランド「loose mader」構想を妄想する日々の雑記weblog!
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

世界地図

本を読みながら、
常に、その国が、街が、どこにあるのか?
そのような疑問は持っていた。
私は、日本の都道府県すらあやしいほど地理も疎い。

「リエージュ」の名前を、かの文章による説明に沿って探し当てたときは嬉しかった。

オクションで破格で落とした世界地図と日本地図は、
これまで、「ただ、どこかヨソの国」であっただけの地名を、
見事に現実感というものを私にくれる。

地図の安かった理由は少々古くて、現行の国名と一致しないからだろうか。
だが、本に古い時代の描かれいた場合には都合がよく、
つまり私は新書をほぼ読まないから、
そのくらいが、実に都合が宜しいわけだ。

フランドルの海を読み終えて…


限界、オヤスミナサイ



PR
手をかけてる本たち。
#いま(15日16:16)ね、読み直して書き直した。だしちゃイカンものまで書いてるし。
#つーか、この記事のあと、シッカリ電話してた; すいませんすいませんすいまs・・

#オボエガキ

いま現在、スタック中の本

ひげよ、さらば
ユルスナールの靴
コルシア書店の仲間たち
ノルウェイの森
さよならバースディ
宮沢賢治全集
ミラノ霧の風景
遠い朝の本たち
ボトルネック
囁く葦の秘密
日本国憲法
土からの教養


同時進行。
一冊ずつなんてムリだ。
一冊ずつやってたら、どんな本か想像するだけでも一生かかっちまうぜ。

飢えてるんだ、とても。
満たされたい。
心に響くものが欲しい、寂しさを埋めるのならば、
なんでもいい、満たされたい、満たされたいだけだ。
たとえば、必要とされたい、居場所が欲しい、笑ってみたい、
明日も起きたいと、思いたい。

欺瞞でもウソでもなんでもよかった。
いまを乗り越えられる糧になるのなら。
いつか、ほんとうになるかもしれないのに、なんて、くだらない夢かな。


吐き出し口は、「習作」という文筆中の何かと、
ここの、思出chの下書き。
私なりの、日記文学への斬り込み。

空想と妄想と現実の間を行き来するのは、至福である。



冒頭へ記載された本、
すべて音読にて読了予定。
聞きたいヒトは読んでやるぞ、スカイプででも夜中に、いつか。
訥々と読むので、催眠効果バッチリだろうなw

あーもう、クソ忙しくていやになる、
時間が一日48時間あればいいのに。

一年の長いことこの上ないというのに、
一日の短さといったら無い。
私はまとまって時間を取れない生活をしているので、
このようにしか読書できない。

どうせ読めても数行、酷いときは文字も見れない、
謎の拒否反応でストレスゲージが最高潮になるので、避ける。
散漫である状態の読書は、苦行に他ならないけれど、
読まずにいられない。
でないと誰かと話をしたくなって、迷惑かけまくりだ。


近頃は、
ケータイでメールか電話攻めか、
スカイプで電話か、チャットか、
ヤフメッセンジャで電話か、チャットか、
greeでハコニワめぐりか、激仕事。
FF11でビシ。

話したい、はなし したいぃ・・・

でも、ね、たいてい、誰もいないんだ~
だれか上のどれででもいいから、遊んでw
昼間、仕事中もたいていアガれるから・・・音声会話はムリだがな。

だから携帯に押しかけちゃうんだよね、つい。
目標がないというのはヒマでしかたないね。

薬で落ちる前に、無くしたくない友にTEL攻撃。
TEL攻撃やめれば、穏便にいられるとわかっていながら相手の限界を推し量る、
悪い癖スキル全開。

嫌われるのも時間の問題だが、
そうじゃないこともあるかもしれない。


人間なんて、いいかげんだから。

わたしは、放置されるのにメッポウよわいが、
何故か放置したがるヒトに獲り憑きたがる。

バカなんだな。

仕えたいヒトを、でも、みつけた。
拾ってくれないかな。
しばらくでいいんだ、、、、違う世界に生きてみたい。
謙虚に言えば、ご飯を食べられるくらいの保障でいい。
私は常に、No2以下という位置が心地よい。
自分で何かするなんてありえん。

さて、おやすみ。
もはや朦朧の彼方。

どうか今夜は、誰にも無意識にTELしませんように。
ごめんなさい。

いちばん話をしたいヒトを、困らせたいと思う、
だけど、もういい。
自分なりにナットクのいく答えを、テキトーにつけておく。
でも、終止符はうたない、だって終わりようもないから。
きっと、何も始まっていなかった、そういうことかもしれない、
そう思うと、泣けて仕方が無い。

あなたの、ナニにも、なれなかったのかな、
これが、わたしの、イタイ現実・・・


そんなわけで現実逃避と、欺瞞には読書は効果的なのだが、
散漫で読みにくい、、、
読み聞かせたいね、私の読書はこうあるのだ、と教えたいね、
みんなにwww

のんのんとしていて、きっと鬱々とした気分になれるぞ。

では、また。
もう数行、どれか読みつつ、あの世に逝きマス。

いま、いい感じ。


秋ふかし…
栗ぃ剥きながら、
アルゲリッチの叩き弾く、
ラフマのピアコン第3番を聴きご満悦。


ん~これが好きな人の為とか、
そのようであるような楽しみに基づく行動なら、
もっと笑顔でいられようものを(笑)


妄想の中では、
私の隣に居るのはもう居ない人という設定。




鬱々と
剥く栗の実の軽々さ
呆け置かれた日々に困惑
さもありなんと 栗の諭すなり


草々。






点である

さて わたくしは
いったい何に見放されたような悲しみにとらわれているのか

信じるという行為を知らなかったためだか
愛するという行為を示さなかったためだか
そもそもが反りの合わない版木を無理やりに一枚の絵に仕立てたがったためだか

色もあせない 心の中にある風景は
再生と巻き戻しを終わり無くくり返す販促映像のように
時折ノイズが入りかけながらも延々と
陽にあたらないおかげで
色だけはあせないで


さて わたくしは
何を求めて裏切られたような気持ちでいるのか

それが悲しいのか
覚悟していた結果であるのにどうして悲しいのか
いつか、いつかと何か、ありもしない何かを信じていたのか
きっと
それが本当にありもしない何かだったと思い知らされたことが
それが悲しいのか

いいえ

ほんとうは
偽りであると見せかけた真実だということくらい知っていて

とてもとても薄い氷の上をあるいているようなもので
ものすごく慎重に渡って行くような、できっこない幻だよと
いつその氷が割れても誰のせいでもなくて
きっとそのときは、2人ともがとてもとても深いところへ沈んでしまって
戻ってこられなくなると言った

その氷を渡りきれるかどうかを約束できないし
きっとムリだと言った


愛しているって難しい
「伝わらない言葉」の代名詞たるに相応しい


さて わたくしは
何に
見放されたのか

掌から言葉が伝われば良かった

綴られてゆく出されることの無い手紙
何度書いても
代わり映えのしない内容で
「送信」とできないまま何通もたまりゆくばかり


さて わたくしは何に見放されたかのようで悲しいのか

出逢って、反芻する文節
「孤独の確立」という根本
魅惑的な概念

孤独にさえ見放されて
失うものなどないと思いながらそれでも
何かを失ったような悲しさが滑稽


さて
もう
寝るとしようか

夜が永遠ならいい
朝など来なければいい

鬱々とただ
くり返していればいいのだから

考えても答えの出ない世界の中で
悲しみだけに満たされて



文学の推移という

現代、という定義がどれくらいの前後を指した年月か、
気にしたことはない。
そんなわけで、現在と言わせていただくとして。

父が言う。
「現在でている小説など全く読む気もない」と。
繰り返し述べるには、
「サラダ記念日」などというくだらない本が出た、
「あれ」を境目にしてからというもの、日本文学は崩壊したと言い、はばからず

とはいえ、村上春樹のナントカいう新作があまりに注目されている件と、
外国ででさえ氏の本が読まれている事実を鑑みて、
読んでみたいと思ったらしい。
私は、先に述べたとおり、「ノルウェイの森」をやっと読み始めたところで、
まだ1冊目の3分の1にすら達していない。
それでも、記憶に残りうる文節があり、例えば、
登場人物たちの人格規範、彼らの説明していよう場面で使われていた、
「1頁も無駄な頁のない本」という旨の表現である。

私は、心底そのような本を読みたい、と思ったものだ。
それは、どんな本であろうか。
私にとって、そのような本が存在するだろうか。


かの表現を受けた矢先、書評にめぐり合い、かのようにして私が手にした本は、
「ユルスナールの靴」であり、
その中に、私の望む世界観が、広がっていたことは、
私をとても安心させてくれた。
ほんのプロローグを読んだだけで感想を述べるのは本意ではないが、
訳するに、「靴がなくなったことが、「盗まれたからというショック」ではなくて、
靴に「自分が見放されたような気がした」ことが情けない」と感じた」という、
著者の感性は共感に値する。

飾らない、ありのまま。
年月を重ねたからこそ簡潔に端的に的確に表現されてゆく何か。
そのくだりを見ただけで、
この先を読み進めても、きっと私ががっかりするようなことは無い。
根拠も無くそのように思えた。

同時進行で、「コルシア書店の仲間たち」にも目を当てている。
まだ、「読んで」はいない。
無作為に頁を開いては、
どのようであるかを吟味している、そのような感じで。

あとがきにかえて、という最後の方にある一言が素晴らしい。
感動して、何度も何度も読み返した。
そうか、そういうことなんだ。
きっとわたしも、そう思っている、解かっているけれどわかりたくない、
抗いたい真実、抵抗したい現実、打ち破りたい非常識。

いま、まさに、私が打ちあたっている壁、
私の思っていることや状況、ちょっと普通には言い表せないような、それらが、
サラリと、一言一句も違わずに表現されていたことが、嬉しかった。

憧れる。
全作、読破したいと、なんとなく思っている。
読むべき時期があるとすれば、
私はいま、この2冊を読むべきなのだと、確信した。

私の「読書」は昔からとても遅く、
3歩進んで2歩さがりつつ、一言一句読み飛ばしたりしない、
反芻しつつ刻んでゆく、それが好きな読み方で、だから、
それが出来ない「浅い本」は、読んだハナから、脳から昇華してしまう。

決して、読書家ではないので、
「本当」に読んだことのある本は、実に少ない。
印象にある・・・覚えているのは、森鴎外の高瀬舟 宮本輝の泥の川。
夏目漱石のこころ、宮沢賢治の、オツベルと像、銀河鉄道の夜。
芥川龍之介の蜘蛛の糸、羅生門。

古く、ないか?
現代文学では、もはや無いのではないか?
廃れるべくの作品では決して無いが、時代という流れには抗えない、
私はそう、思うのだ。


さて、本件の、サラダ記念日であるが。

読んだことがない。

私は、読んだことがないのだ。
短歌は嫌いではないし、もちろん自分でも表現することもある。
いちいち掲載しないだけで、
そうとう書いたり考えたりはする、鍛錬も兼ねて。


サラダ記念日が出版されてから、
現代文学をにマッタク興味が無くなった、
文学ではなくなったと断言する父であるが、果たして彼は、
件の本を、読んだのであろうか。
確かめたことはないが、おそらく読んでいないに違いない。

父は、現代的なものをとにかく否定する。
アホっぽく見えるアイドルがキャーキャーさわいでいる番組や、
ヤラセ根性丸出しの、民放のドキュメンタリー、
視聴率だけを重視した、もはや何を伝えたいのかわからない大河ドラマ、
クイズ番組、歌謡曲番組、とにかくなにもかも、自分の意に会わないものを、
ばかばかしい、くだらない、うるさい、低俗だ、・・・そのように。

だが、真剣に見たことがあるのだろうか。
正面から受け止めて、検証したことも無いものを、貶す権利など、
私には無いとおもえるのだが、本人は、偏見と、
古き、よき時代へのノスタルジィだけで見下しているように思う。



時代は、進んでいくものだ。
良くも悪くも、変化し続けるものだ。

私が、日々うせてゆくと憂えるものとしての「美しい日本語」という文化さえ、
軽んじられて、消え逝こうとしている。

だが、時代というものもある。
時は止まらない。
文明は進む。
言語も、文化も、あわせて変化する。
誰にも、止めようも無いことは、 揺るがない事実であり、認めざるを得ない。

推移する文学という文化。


終の棲家という、最新の芥川賞作品の、なんと読みにくいことか。
芥川賞が、コレ程度なのだ。

なげかわしいと思う気持ちは、否めない。

だが、時代についていく本でなくては、
文化ではないのだ。
言語は進化する、当然、時代を反映する。
略語、絵文字、通信手段の変化により短縮されてゆく言葉たち、
まるで記号と化した様な、「若者」のメールやチャットや掲示板の表現。

憂うべきであろうとも。
純文学を愛する人種としては、許しがたい、文学もしくは言語への冒涜にすぎない、
もはや死語のようである「新人類」は、常に代謝するのだ。
そうでなくては、時代は前にしか進まないのであるから、仕方が無い。


だとすると、
「古き良き」を守るべくは誰であろうか。
今後永遠に、著後100年も読まれるであろう本は、どれであろうか。
愛されるべきは文学ではないのか。
淘汰されて残るべきは、どのような本であろうか。
200年後に、「いまも尚、愛され続ける名作」とは、今読まれている、
過去の名作ばかりであるのではないだろうか。
わたしは、そのような危惧を抱かずにいられない。

結局、**賞と冠をいただいた作家の作品だけが、
永遠と残るのではないか。
その賞を頂いた作品は、残らないのではないか。
大賞をもらわずとも、残り逝くべきは、本当は賞など、もらえないような、
些細な本なのではないか。

私たちは、もはやそのような、何かを越えて行くことを、
諦めてはいないだろうか。

故人のみならず、わが名を冠とする賞を設立できるほどの文学が、
残っていくことを切に願う。

だが、時代は動いてゆく。
文化も進んでゆく。

推移してゆくのだ。

何もかもが。

とどまっているだけが、正解では、決して無い。

サラダ記念日が、古文の世界を打ち砕いたのは間違いがないと思われる。
文学の在り方や、敷居を低くしたり、その程度でいいんだ、という間違った価値観を、
広めたことを、私は否めない。

現代にあった文章でなくてはいけないのか。
留まったままの価値観で描かれた作品は、カビくさいだけのものなのか?
守るべき文化を棄てるべきではない、そう思う。

文学という定義は推移していくだろう。
時代が動けば、言葉も変わる。
言語とは、時代を如実に表してゆくものだから。
進化するとは、そのようにあるのでろうと、理解するから。

であるが、
本当に心のソコまで染みてくる文学が、数えるほどしかないということを、
私は知っている。
価値がないわけではない。

個人としてどこまでを文学と定義するか、
推移する文学の定義を、どこまで許容するか、
一方的にサラダ記念日を拒否しつづける父を、不憫にも思う。

旧世代の化石のようだ。
古いものが悪いわけではない。
新しいものが良いわけでもない。

これまでだって、斬新であるという理由で、
文学界は進んできた。

これからだって、きっとそうあるであろう。

父の思う文学が、古典となりつつあるのだとしたら、
古典の定義を変えるべきである。

生きている限り、言葉は進化するし、発展するものだ。
固定的な概念だけで、言葉が存続でき得るわけが、無いのだ。

世の中は、毎日、日々刷新されゆくのだから。


いまの私にわかるのは、須賀敦子が、私に必要な文学だということだけだ、
そう、1頁の無駄も無く、ずっと在るもの。
一行、一行、一言一句が愛おしい、そうあるべきである、文学は。
普遍的な価値観とは、文学であるという重要な要素に違いない。

この価値が、どうか存続し続けますように。

新進気鋭と、古典が、平行にありつづけますように。

文学の定義が、推移しませんように。

矛盾した願いではあるが、
願わずにいられない。

うん、薬オチで、もはや意識不明デス。

支離滅裂だったら、ごめんなさい。
でもいまは、私はこうあるしかない。

おやすみなさい☆

らいとにんぐ版PS3って!

買ってくださいw
って、なにげに高いよ、セレクトショップww

転売するヒト多いんだろうな。

★CEJH-10008★

といいつつ、
見てる間に減っていく在庫数・・・完売だな(*'ω'*)・・・

以下追記。
と思ったら、値段さらに上がって、台数復活w 
すごいなー。

とかいいつつ、
買うつもり(というかヨユー)なかったのだが、
私は、つい、イキオイで、正規な値段のとこで予約しちゃいました・・・

病院いってきた件。

#なんだかな。

そもそも、心療内科へと、フリたがってるのは解っている。
今日の先生は、特別に、なんだかナゲヤリだったwww

突然改善するようなモンじゃないからとの意味でだろうと思うが、

「診てても楽しくない」と、のたもうた。

うーん、
私のカルテには、
「自律神経失調症」
「メニエール病」
と明記してある。
耳鼻科で診療されても、間違いではないと思うが・・・


そもそも、「メニエール病」とつく前に悪かったときは、
内科で診てもらっていたわけだ。たぶん2004年頃。

#たぶん、前にも記したが。

親切な先生で、よかったんだけど、市立病院のサガというやつで、
医師はよく入れ替わる。
代わりに来た医師、法村氏(コイツはどこででも実名で書かせてもらう)の第一声の暴言に、
ブチきれたわたしは、それきり病院へ行かなくなり、病状を放置してきた。
いきなりの断薬はキツかったけど、とりあえず死んでないから、別にいい。

で、その結果、数年で、また、なんだかひどくなってきて、
今継続している通院の、初診が「眩暈」「耳鳴り」だったので、
耳鼻科が主治医なわけです。

・・・楽しくないとか言わないで診てくれよ^^;

めんどくさいさー、というよりだな、
いまさらキッツイ薬だしたがるので有名な某心療内科へなんか逝きたくないっての。
田舎は、病院も選択肢が少なくて困るわ。


うーん、
「(さきゆき)暗いですしねぇ、楽しくないですよねぇ」
とか言われてもなぁ; 病人コッチなんですけどぉーー!?

はー・・・

いろいろ起こるわネ(;´・∀・`)・・・

今、改めて、書いてて、笑いがこみ上げてきた!
楽しくないですって?バカウケるな~~ なンだそりゃーwwwww

はぁー・・・

ま、今日も部屋で着替えてて、転んだんだけどね。
グルグルすんの、早く治まらないかなー;;;
定着されると困る気がする。
耳鳴りは先週、鍼で止めてきたからしばらくならないと思う。
グルグルは、鍼で止まらない気がする。
つーか、もう診療代ない、ムリ。

そして今日も残業。
いま休憩w

「楽しくない」とか言われた患者、他にもいるかしら?
誰かと共感したいわ~w

さーて、もうひと踏ん張り。

素晴らしい本が読みたい。

私は、音読するのが好きだ。

たとえば、憲法の前文などを、声に出して読む。

ずっと ずっと このように何かを書き続けるのは、
私の唯一できることで、あるからだ。

反面、まったく本を読めなくなったので、読まなくなった。
そのような意味で、とても餓えている。

文学が読みたい。
理路整然とかかれた論文も、嫌いではない。
荒唐無稽な内容でも、心打つ文体(ぶんてい)であれば問題ない。

私には私の、独特の言い回しがある。
他の作家も然りであることは、言うまでもない。
だが、特徴振ろうとしたり、日々使わない単語を多用したりするような、
技巧や特殊性をさも強調し、勘違いした「個性」という意味を履き違えたような、
現代ウケするかのような読者へ迎合したものを読むのは、苦痛である。

これが最高である、という本に巡りあえたらいい。
だが、それには読書をしなくてはならない、当然のことである。

音読しても、とても自然に口から言葉として発することができる文章。
それこそが重要な要素であり、一言一句が心に残っていくような寛容さ、
何度読んでも、新たに発見する意味や複線、読むたびにあらゆる視点からの解釈が増える、
わかる、理解する、まるで自分のことであるかのような臨場感。
それがないと、文学とはいえない。

私が書くものはその対極にあるように思う。

ある日、何かわかる日がくるのだろうか。



何もかも吐き出したい。
カラッポになるまで。

そして、素晴らしい文学で埋め尽くされたい。
美しい日本語、共感、繰り返し繰り返し、声に出して読む至福、
渇望するのは、そのような満足感。


欲しいものは何一つ手に入らない。

でも、終止符を打たない限り、手に入らないわけはない、いつか、
叶うのだろうから、そう思っていて、いいのだから。

自由とは、このようにしてあるべきであると、
教えてくれた君たちに感謝。

きっと、さようなら。
でも、終わらない、私には永遠。
残ってゆく、文学のようにそこに在り続ける。
残してゆく、きっと、ずっと、一生。


文学は、私を捨てない。

愛すべきいとおしい言葉たち。


素晴らしい本を、読みたい。



忍者ブログ / [PR]

photo by 7s
パーツ & リンク
↓↓とりあえずコメントしたい方↓↓
足跡帳∞掲示板

アフィリンク
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新の記事
2016年01月26日
2014年08月18日
2013年07月24日
2013年04月26日
2012年07月26日
最新のコメント
⇒10月31日 シンバ
⇒10月31日 シンバ
⇒07月08日 カタン
⇒07月07日 えあり
⇒03月25日 カタン
最新のトラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN: 廈淡
HP: x loose mader x
性別: 女性

自己紹介:
こんにちは、廈淡(カタン)です。
のんびりマッタリ、多岐ジャンルにて創作・制作・製造活動にあこがれる妄想家です。

カタンの発祥はNiftyServe。バンドB・chでのハンドルネーム。
詩のフォーラム(FPOEM)ではハンドルネーム七風(ナナセ)で、暫し在籍。いずれも1996年頃~。
当時の作品は書庫に格納作業中。
その後、1997年5月にサイト「十字架工房」を立ち上げたが、あれこれ変遷。
縁がある、と思われる方はぜひコメント、トラックバックをblogから、メールをフォームから。
詩作品への感想も真摯に受付中。
credit LINE
(c)copyright 2010 loose☆mader.
All Rights Reserved.